2004, 2月 指宿枕崎線
ビューポイント 薩摩富士の開聞岳 | 最南端の駅 西大山 |
最南端の有人駅 山川駅前 | 最南端の交換駅である西頴娃で5332Dと交換 |
最南端の終着駅 枕崎
最南端のローカル線 指宿枕崎線
西鹿児島を出て1時間20分 キハ147 2両編成の 1341D列車は
温泉の町指宿(いぶすき)に到着、大半の乗客がここで下車
この駅でワンマン運転の乗務員が交替し 列車はさらに南下して 枕崎と共に
カツオ漁の町として有名な山川に着いた。
湾が見渡せ対岸に町が広がっており、山川港行のバスの発着がある 駅前には日本最南端の有人駅と記してある標柱があり、
事実上JR切符発券装置を備える最南端の駅であった。列車はここで列車番号を8331D
と不定期運用に替わり 乗客わずか5名
を乗せて発車、山川〜枕崎間 の路線存続の不安を感じていたのか
まるで的中したかのようだ。雑誌やポスターで見たことのある
日本最南端の駅の標識が立つ 西大山駅は
畑の中にポツンとホームがあるだけのさみしい駅で次の頴娃で2人降車してからは
これから先
途中駅での乗降客はほとんどなく、この列車が不定期でありながら存続の意味が理解できなかった。
薩摩富士と呼ばれる 開聞岳が
晴天のおかげで全容が車窓に続き、その頃上付近には南国鹿児島にもかかわらず薄らと雪が
積もっていたのが以外であった この開聞岳の絶景は
指宿枕先線のハイライトポイントである。西頴娃は 島式ホームで 山川以西
唯一列車交替可能駅で、ここで 5332D と交換があったが
向こうの列車にも人はほとんど乗っていなかった。東シナ海の海面が
西日にまぶしく光り
はるか彼方は沖縄なんだと想像すると、今まさに日本の最南端のレールを走っているのだという実感が湧いてくる。
所によって
レールの継ぎ目がずれてセットしてあることから 発する独特のジョイント音をききながら列車はやがて終点の枕崎の町に
入り
定刻どおり列車は駅に到着した。 そして 2004年1月28日 15時41分プラットホームに降り立ったその時に
私自身の1つの
目標が達成した一瞬でもあった。 以前 最北の終点である
北海道稚内駅に降りた時から思い浮かんだ目標が、最南端の終着駅
である鹿児島県枕崎への最北と最南を結ぶ鉄道の旅だった。
枕崎は鹿児島からだとバスで約1時間30分で着く。 わざわざ距離も長く
時間も費用もかかる指宿枕崎線を利用する人は 青春
18切符で旅する乗客以外は皆無に等しい。 鹿児島交通の鉄道路線があった時代に 伊集院で国鉄に乗り入れ
DCによる 西鹿児島
乗り入れ運転していた鉄道が 繁盛していく時期もあったが、国道整備も進んで バスが優勢になると鉄道の存続は危うく、
結果として
鹿児島交通の鉄道路線は消えてしまった。
南国ムードあふれる枕崎駅の 広い構内跡や駅舎は
鹿児島交通時代のもので、華やかなりし頃を想像させてくれるが今は1本のレール
があるのみ、 けれどもこのレールは 最北の終点である 北海道 稚内に
確かに継がっているという事実を確認した今回の旅となった。
折り返しの時間が少なく 名残惜しい気持ちで 山川行 8328D に乗り
枕崎の町を後にした。
駅舎には人が多くいたので 列車に乗る人かと思えばバス待ちの人たちで、枕崎を出たとき乗客は4名ほどしか乗っていない。 しかし
途中駅で
学生が次々と乗り込んでくる光景を目にしてこの列車の存続の意味がやっと理解できたのである。ちょうど学校の下校時間帯
となり、この列車は通学列車となったのであった。途中、西頴娃からも大勢の学生が乗込んできて2両の車内は一層にぎやかになってきた。
指宿、山川方面からの通学客で指宿枕崎線の使命は
今も果たされており、まるで空気輸送だったあの枕崎行8331D は回送列車として
の意味もある運用だったのだ。
30数年ぶりに訪れた鹿児島は
大手企業の工場の進出や 石油備蓄基地など、産業の多い活気のある県に変身していた。
3月に 新幹線が鹿児島から 新八代まで 先行部分開業する意味が
この地を訪れてみてよく理解できたことも今回の旅で得たひとつである。
桜島の噴煙と、半島の先端で自己主張しているかのような
薩摩富士の開聞岳の風景は、記憶に残る30年前と変わりなく印象的な姿であった。
2004年1月 T・Yamamoto
.